地震・津波対策議連 視察その4

5月13日(火)

南相馬市から飯館村、川俣町をバスで通過
浪江町
人が消えた集落が次々と目の前に現れる。

済生会川俣病院前
川俣病院

阿武隈川を渡る
阿武隈川

翌朝9時に宿泊先を出発し、会津若松市にある仮設住宅へ
会津若松仮設住宅1

会津若松仮設住宅2

集会所で被災者の方々にお話を伺う。
会津若松仮設住宅3
画面右側が大熊町の塚本英一さん(73歳)、左側は馬渕和年さん(68歳)

3.11の発災時、塚本さんは田んぼで作業中だったが、6号線が陥没する
等の異変に気づき、原発で働いている人が帰ってきている姿も目にした。
その後、区長として地区住民の安否を確認したが、その夜は余震で
寝られなかったとのこと。
翌朝6時には消防分団長から無線で避難指示があり、8時までに住民を
神社に集合させたそうだ。
100世帯300人いる住民の半分以上は集まり、8時半には政府が手配した
茨城交通バスに老人、子どもを乗せ避難所に向かった。
バスは常磐町の避難所を訪ねたが、受け入れ困難とのことでその後
ひきふね町に移動し、その後三春町の春山小学校の校舎でようやく
受け入れられたとのこと。
着の身着のままで逃げてきた住民の方々が食べ物を口にできたのは、
夜の10時。
それも炊き出しのおにぎり1個…。
その後の原発爆発により、裏磐梯にあるリゾートホテルに350人が移動する
ことになり、自治会組織を結成、3カ月間そこで生活した。
7月に3次避難場所である今の仮設住宅に入居し、現在に至っている。
今の願いは、田畑、山、生まれたところに帰りたい。
ご自身は原発で40年働き、何万ベクレルも被曝したが、何ともない。
災害復興住宅をつくってほしいとのこと。

馬渕さんも塚本さん同様、区長を務め、仮設住宅でのまとめ役として
日々心を砕いておられる。
住んでいたのは山のふもとの地区だったが、山の除染(道路から20m)を
しても、20%程度しか下がらない。
原発はいかがなものか。
技術も最終処分場もない。
部落もばらばらで行政区として機能もせず、影響力もない。
帰りたい人そうでない人と千差万別、みんなバラバラだが、町とのパイプ役
を果たしていきたいと淡々と話してくださった。

会津若松仮設5

掲示板には相談会のお知らせが
会津若松仮設住宅6

震災から3年が経ったが、被災地の復興はまだまだ先が見えない。
何よりも被災した方々の生活再建こそ最重要課題だ。
とりわけ放射能により人生を狂わされた福島の方々の声に政府は耳を傾け、
一刻も早く安心して日常生活を送れるようにしてほしい。
同時に千葉県議会としても超党派で取り組めることがあるはずだ。

3日間ご教示いただいた會澤さん、本当にありがとうございました。
會澤さんと
今後とも東北被災地からの発信を受け止めていきたい。