地震・津波対策議連 視察その3
5月12日(月)
視察2日目は、航空自衛隊松島基地からスタート。
こちらの基地の主な役割はパイロット養成のための操縦教育や
ブルーインパルスによる展示飛行等を行っている。
旧海軍航空基地が戦後米軍の駐留を経て昭和30年に返還され、
現在に至っている。
東京ドーム78個分の広さ、滑走路は2700mとのこと。
3.11当日は、午後3時40分に津波が基地に到達し、
宮城県の死者は1万1千人、そのうち5千人が石巻、東松島、小名浜の方々。
この松島基地では職員が1名、基地に向かう途中で亡くなっている。
震災直後から行方不明者の捜索や医療支援、炊き出しや入浴支援等に
昼夜を分たず活動した様子が分かった。
基地内の4万本の木が立ち枯れ、伐採したとのこと。
残された展示物から津波の破壊力が分かる。
この高さまで浸水
震災時に国民に頼りにされ、力を発揮してきた自衛隊。
改めてその位置づけについて考えさせられる。
松島基地を後にし、南相馬市に向けて出発。
バスは東部道路、別名波分け道路を走り、多賀城、名取、岩沼市と
南下する。
車中でガイドの會澤さんが被災自治体の復興の状況や震災時のエピソード
等を詳しく話してくださった。
・東松島市では、震災ガレキの分別を最初から始めたので処理費が1/2で
済んだ。また、嵩上げ工事もダンプではなく山と平野をベルトコンベアで
つないで土砂を運んだため、工期短縮することができたそうだ。
・見つかったご遺体は全部裸の状態。「顔や五体があって良かったね」という
会話がされるほど損傷がひどく、中には子どもの手を離さないで見つかった
お母さんのご遺体は下半身がなかったなど、地獄絵図のような現実が
そこにあった。
・人を助けるために死んだ人も多くいた。日本人には見ず知らずの人を助ける
すごさがある、等々。
亘理地区では大規模ないちご栽培のビニールハウスが広がっていた。
津波の到達地点を知らせる看板
小川さんが津波被害の状況を知ったのは、当日の夜のテレビ報道。
津波想定は3mだったが、実際は15~20mが到来し、1800世帯が
壊滅状態。
死者は1088人、うち津波によるものが636人。
翌日12日の早朝5時44分に福島第一原発から半径10km圏内の住民に
避難指示があり、午後6時25分には半径20㎞圏内まで広げられた。
30㎞圏内の住民は屋内退避の指示が出され、市は15日~17日にかけて
バスで市内の避難所から市外に約2千人を避難誘導。
その後、3千人近い住民の集団避難を行った。
23年9月30日の緊急時避難準備区域解除を受け、多くの市民が避難先
から戻っているが、人口は4千人ほどの作業員を含めて5万1千人。
2年前の4月には「警戒区域及び計画的避難区域」を「避難指示解除準備区域、
居住制限区域及び期間困難区域」に見直されている。
小川さんが「原発事故で海も山もダメになった」と語った言葉が重く響く。
市では400億円をかけて大手ゼネコンが除染作業を行っているが、それでも
多くの地点で1μシーベルト/毎時を下回る程度だそうだ。
震災後の高校の生徒数は73%、小中学校は65%、未就学児は40%にまで
減少し、避難先から戻らない家庭もある。
市の一般会計も300億円から1200億円に膨らみ、他の自治体から40人の
職員の応援を受けているそうだ。
マンションの窓からカーテンがはためく
着の身着のまま避難した住民は今どこで暮らしているのだろうか?
今年1月に市長選があり、桜井市長が再選。
桜井市長は市議時代に小川さんと行財政改革に力を入れてきた仲間
とのことで、今も苦難を共にされている様子がひしひしと伝わってきた。
南相馬が直面している苦しみ、悩み、放射能被害を受けている住民や
自治体の先の見えない不安を肌で感じることができた。
フクシマが抱えている現在進行形の困難や課題を日本全体の国民が
共有し、我が事として受け止め、動かなければと改めて思った。